いろいろ考えるブログ

株式会社ベンチャーネットでいろいろ担当しているタケダがいろいろ考えるブログです。

頑張っているのは言わなきゃわからない

こんにちは、タケダです。

皆さま、いかがお過ごしでしょうか。

私は風邪をひいています。のどがガラガラしますし、咳がでるのでどうにも調子が出ません。秋だなあと思います。例年なら今頃は高熱をだしたりもっとひどくなることが多いので、今年はまだましかなあと思いながらごろごろしています。

 

さて、私はこどものころ、勉強のできる子でした。学校の成績はよかったですし、公文式に通っていて、小学校2年生か3年生くらいには小学生の分のプリントがすべて終わってしまったりしていました。いま思い返せばただ要領がいいタイプだったというだけなのですが、あまりガリガリ勉強しているわけでもなかったので、周囲のおともだちや、親戚のあいだでは、「ちょっと特別な子」のように言われていました。

 

最初はそれが嬉しくて、「自分は特別なのかも」なんて思ったりもしました。けれど、特別扱いされることが、しんどいこともありました。自分なりに頑張って結果が出たことであっても、「あの子は特別だから」なんて言われてしまうこともあって、そんなときは「一応がんばってみたんだけどな」なんて思ったりしました。「特別だから」と言われてしまうと、自分のがんばりを無視されているように感じましたし、なんだか仲間外れにされているような感じもしました。

 

大人になってからも、「京大出身だから」「器用だから」なんてことを言われると、同じように自分の頑張りを認めてもらえていないような、線を引かれているような気持ちになりました。けれど、よく考えてみたら、自分だって他の人のがんばりに目を向けられているかというと、そうではないかもなあと思いました。

 

誰かが成果を上げたりしたときに、「すごいなあ、やっぱり〇〇さんは才能があるから」なんてことを言いがちです。その人の能力とか、経歴とか、出自とか、いろいろなことを勝手にその成果の理由だと決めつけてしまうのです。

 

たしかに、もともともっている能力というか、性質とか、経歴とか、そういうものが成果の一つの理由ではあることがほとんどだと思います。けれどそれだけではなくて、そういうものの上にその人のがんばりが加わることで成果があがるのだと思うのです。(もちろん、まれにほんとうにただのラッキーみたいなこともあるかもしれませんが)

 

ではなんで頑張りに目が向かないかといえば、なかなか「わたしがんばってます!」と主張する人が少ないからかなあと思います。なんとなく、頑張っているのを人に見せるのは恥ずかしいというか、あまり見せるものではないというような空気があるように感じます。あるいは、がんばりを認めてほしい一方で、「頑張らなくてもできちゃう才能のある私」みたいに見られたい気持ちがあるのかもしれません。自分のこどものころのことを思い返すと、この2つの気持ちのあいだですごく揺れていたような気がします。

 

けれど、頑張りを認めてもらうのってやっぱりうれしいことです。大人になったいまは、「才能のある自分」みたいなかっこつけの気持ちがだいぶ薄らいできたというのもあるかもしれません。なので、もっと自分が頑張っていることはかっこつけないでまわりに伝えていきたいなあと思います。